昨日欄で星ロミジュリと雪ロミジュリの印象の違いを縷々書きましたが、キャッチコピーをつけるとしたら星は「駆け抜ける青春」、雪は「愛と狂気のヴェローナ」という感じかなあという気がしています。いやコピーの拙さはおいといて、印象として。
前回の続き。「死」と「愛」の話。まとまらないままつらつらと。
***
「死」と「愛」は基本的に象徴的な、人ならざる存在なのだと思う。
でも、演じ手の個性の影響で、その度合いには差があり、また演じ手の個性と学年差の影響で、星と雪では「死」と「愛」の差や関係性が違って見えた。
星組『ロミオとジュリエット』では、「死」は研5の真風、「愛」は研2の礼真琴君。
「死」と「愛」は基本的に象徴的な、人外の存在。しかし初見時のにも書いたとおり、「死」には意思があるが「愛」はただ存在している、と思った。「死」には、人々の争いを煽り人を死に誘うという意思が見える。ある意味人間的。でも、「愛」は無邪気な笑みを浮かべ、子供のようにふわふわと漂っている。その意志のない感じが、より人外の者という印象を受けた。
雪組では「死」は研4の彩風咲ちゃん、「愛」は研9のせしる。星版とは学年が逆転している。
そのせいか、星とは逆に「死」には自我がなく、愛は意思を持っているように見えた。「死」は本能のまま力のままに人を操る。「愛」は意思を持って人を導き見守る。
『ロミオとジュリエット』を「愛」と「死」の対立の物語として捉えるならば、誰かが書いているのを読んだけれど、「愛」が「試合に負けて勝負に勝つ(ロミオとジュリエットの愛は成就せず二人は死んでしまうけれど、両家が和解する)」物語。その敗北と勝利の色合いが違う。
星組では、策を弄し勝利した「死」が「愛」の無作為、意図せぬ意図に足元をすくわれて逆転される物語。雪組では、力のままに勝利を手に入れた「死」が「愛」の深い叡智と洞察に敗北していた物語。
星では「死」に意思がある=人間的であるが故に、その敗北はむしろ救いかもしれないと思っていた。漠然とそう見えていた。
雪では「死」は荒ぶる神なので、この敗北は初めての挫折、むしろ目覚め、自我の芽吹きのように感じた。(スサノオとアマテラス、的な)
初見時、自分でも驚いたことに、咲ちゃんの「死」から目が離せなかった。意思や自我がなくただ「死」である感じに目を奪われた。
元々咲ちゃんはちょっとヤバいところのある役が似合うと思っていたので今回の「死」は適役だと見る前から思っていたのですが、予想以上に惹かれた。
最初の方にも書いたけれど「死」と「愛」は基本的に象徴的な、人外の存在だと思う。
なので、正直せしるは「愛」としては大人すぎる、人間すぎると思って。些かの違和感をもって見ていた。でも最後まで見るとこれはこれで、いやこれが雪組『ロミオとジュリエット』の「愛」なのだなと。
何と言うか、意志があることの意味、みたいなものを感じた。また観察します。
しかしせしるの女役と言うとワンダーランドのアラビア娘とか全ツミロワールのシンデレラとか堕天使の地獄のクイーンとか(最後のは違う)意地悪系性悪女ばかり見てきたので今回の愛も若干危惧していたのですが、とても柔らかい表情でロミオとジュリエットを見守る姿に、役者としてこういう表現もできるんだなあと。小池先生もナウオンで「アピールの強い人なのでマドンナのようになってしまうかと思ったが違った」という趣旨のコメントでした(笑)。
(余談ながら柔らかい女役をしていると確かにせあらと似ていると納得)(昔よく似ていると言われたというエピソードにそうか?と思っていた)
今回はフィナーレもしっとり系でしたが、最後パレードのティアラを戴いたお姫様ぶりには噴きました。何あのディズニープリンセス!
と言う訳で、まとまらないままに「死」と「愛」、初見印象。
(……本音を言うとせしるについては役名なくても髪の毛逆立ててヤンキー座りしたりドツキ合う切り込み隊長姿が見たかったと言えば見たかった気もするのですがそれは言っても仕方のないことなので(苦笑)。予想外(失礼)似合いっぷりに新しい表現の幅と言う意味でも今回はこれで良かったのだと思います)
「死」と「愛」は基本的に象徴的な、人ならざる存在なのだと思う。
でも、演じ手の個性の影響で、その度合いには差があり、また演じ手の個性と学年差の影響で、星と雪では「死」と「愛」の差や関係性が違って見えた。
星組『ロミオとジュリエット』では、「死」は研5の真風、「愛」は研2の礼真琴君。
「死」と「愛」は基本的に象徴的な、人外の存在。しかし初見時のにも書いたとおり、「死」には意思があるが「愛」はただ存在している、と思った。「死」には、人々の争いを煽り人を死に誘うという意思が見える。ある意味人間的。でも、「愛」は無邪気な笑みを浮かべ、子供のようにふわふわと漂っている。その意志のない感じが、より人外の者という印象を受けた。
雪組では「死」は研4の彩風咲ちゃん、「愛」は研9のせしる。星版とは学年が逆転している。
そのせいか、星とは逆に「死」には自我がなく、愛は意思を持っているように見えた。「死」は本能のまま力のままに人を操る。「愛」は意思を持って人を導き見守る。
『ロミオとジュリエット』を「愛」と「死」の対立の物語として捉えるならば、誰かが書いているのを読んだけれど、「愛」が「試合に負けて勝負に勝つ(ロミオとジュリエットの愛は成就せず二人は死んでしまうけれど、両家が和解する)」物語。その敗北と勝利の色合いが違う。
星組では、策を弄し勝利した「死」が「愛」の無作為、意図せぬ意図に足元をすくわれて逆転される物語。雪組では、力のままに勝利を手に入れた「死」が「愛」の深い叡智と洞察に敗北していた物語。
星では「死」に意思がある=人間的であるが故に、その敗北はむしろ救いかもしれないと思っていた。漠然とそう見えていた。
雪では「死」は荒ぶる神なので、この敗北は初めての挫折、むしろ目覚め、自我の芽吹きのように感じた。(スサノオとアマテラス、的な)
初見時、自分でも驚いたことに、咲ちゃんの「死」から目が離せなかった。意思や自我がなくただ「死」である感じに目を奪われた。
元々咲ちゃんはちょっとヤバいところのある役が似合うと思っていたので今回の「死」は適役だと見る前から思っていたのですが、予想以上に惹かれた。
最初の方にも書いたけれど「死」と「愛」は基本的に象徴的な、人外の存在だと思う。
なので、正直せしるは「愛」としては大人すぎる、人間すぎると思って。些かの違和感をもって見ていた。でも最後まで見るとこれはこれで、いやこれが雪組『ロミオとジュリエット』の「愛」なのだなと。
何と言うか、意志があることの意味、みたいなものを感じた。また観察します。
しかしせしるの女役と言うとワンダーランドのアラビア娘とか全ツミロワールのシンデレラとか堕天使の地獄のクイーンとか(最後のは違う)意地悪系性悪女ばかり見てきたので今回の愛も若干危惧していたのですが、とても柔らかい表情でロミオとジュリエットを見守る姿に、役者としてこういう表現もできるんだなあと。小池先生もナウオンで「アピールの強い人なのでマドンナのようになってしまうかと思ったが違った」という趣旨のコメントでした(笑)。
(余談ながら柔らかい女役をしていると確かにせあらと似ていると納得)(昔よく似ていると言われたというエピソードにそうか?と思っていた)
今回はフィナーレもしっとり系でしたが、最後パレードのティアラを戴いたお姫様ぶりには噴きました。何あのディズニープリンセス!
と言う訳で、まとまらないままに「死」と「愛」、初見印象。
(……本音を言うとせしるについては役名なくても髪の毛逆立ててヤンキー座りしたりドツキ合う切り込み隊長姿が見たかったと言えば見たかった気もするのですがそれは言っても仕方のないことなので(苦笑)。予想外(失礼)似合いっぷりに新しい表現の幅と言う意味でも今回はこれで良かったのだと思います)
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