と言う訳で、今回はジョルジュの話をします。
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いやその。初見時は、噂には聞いていたけれど大変な役だなあと(苦笑)。ずっと仏頂面で、ヒロインを怒鳴り散らして。正直、タカラヅカの二番手役としてはどうなんだろう、と。
初演は知らないけれど、演じ方によってはまた違ったのかな。もう少し二枚目寄りだったのかしら。
でも、タカラヅカ的に格好いいとか悪いとかいう問題とは別に、今回のベニーが演じるジョルジュは有りだと思うのです。
世の中の全てを呪うような攻撃的な態度も、常に不満を露わにしている顔つきも、有りだと思う。ベニーは、私の個人的好みからすると時に演り過ぎることがあるのだけれど、今回はその演り過ぎも含めてジョルジュという人物、ジョルジュってそういう人なんだ、と思った。
いや、子供みたいに口元をむにーっと歪める表情に「冬彦さん」とか言ったけど、そのどこか病みかけた狂気じみた様子に、負傷してからの4年間という長さを実感させられた。
もっとも、バウでの爆走暴走タイフーンぶりと比べると、青年館では抑え気味だったのだけれど(と言って青年館初見の友人に「あれで?」と言われたけれど・苦笑)。聞いた話では、不調で声を張り上げにくかったので結果的に抑えた感じになったのだとお茶会で言っていたそうですが。最終的に青年館のバランスは、怪我の功名と言うかより良かったと思います。いやバウもバウで良かったと思っているけれど。
でも。青年館では抑えていた、と感じたけれど、ソロ歌だけは違っていた。
「心の壁」というタイトルなのか、車椅子でひとり舞台に残って、心情を吐露する曲。全てを投げ出し、吐き出し、ぶつけるような歌。全身の力で歌っているけれど座ったままなので動きは制限されて、それがまさにジョルジュの状況で。
それまでのジョルジュのやってきたことが、泥粘土を手当たり次第に投げつけ撒き散らし周囲を傷つけ汚すような行為だとすると、この歌はその泥を激しくぶつけて、自分自身の塑像をつくっているように見えた。その出来上がった像は黒く歪んで荒々しく、見る者の心をも真っ黒に塗りつぶすような姿。
そしてその歌は千秋楽が近くなる毎に鬼気迫っていった。息を呑んで、拍手するのも躊躇われる、でも拍手せずにいられないほどに。
この歌を、歌詞を聞いたとき、ああ、わかってるんだなあ、と思った。
わかっている。自分自身で壁を築いてしまっていることを。でもその壁をもうどうすることもできないことを。
わからないで何も見えないで闇雲に暴れているのも辛いだろう。でも、自覚して、それでも抜け出せないと思っているのも、きっと辛い。
実際、それまでの姿を見てこの叫びを聞いたら、おいそれと(エドのように)昔の心を取り戻してなどと言えないもの。君が世界の見方を変えれば世界は変わるのに、とは思うけれど、でもきっと無理なんだろうな、と思ってしまう。
ポーラのことも愛したいけれど愛せないし、愛せないけれど離したくない、のだろうなと。
ジャンがポーラに絡んでるとき、実はジョルジュは車椅子で猛ダッシュして駆けつけようとしていることに、青年館で気づいた。そりゃ、動機はいつものように怒りとか独占欲かもしれないけれど、でも必死で駆けつける姿の、その必死の形相には、ちょっと泣けてしまう。
結局、エドが止めに入ってその場を収拾してしまい、ジョルジュは嫌味を言って怒鳴り散らすという結果になるのですが。
(余談ですがここでエドが現れずジョルジュとジャンの直接対決になったらきっと酷い話になっただろうなと。だってジャンは絶対「ずっとお前の相手じゃ寂しいだろうから慰めてやろうって言ってるんだよ」くらいのこと言うよ?ポーラが気の毒すぎるのでエドが来てくれてほんと良かったと思います)
エドとポーラが本当は兄妹でないことを知ったら、ジョルジュはどうしていたのかな、と少し思う。
ジョルジュの中にはポーラにすまないと思う気持ち、自分とは別れた方がいいんじゃないかという気持ちが、少しはあるのだと思う(でも手放したくない、去って行かれるのが怖いから余計に縛りつけようとする、のだろうけれど)。
エドが信頼に足る男だと思えれば、あるいは、という未来もあったのではないか、と言う気がしているのです。ポーラの意思はまた別の話ですが。
長々書いてますが、実はジョルジュで一番印象に残っていて毎回見てしまったのは、ポーラに対する場面でもソロ歌でもなかったりします。
ひとつは、ノルマンディー上陸。喜びに沸きかえる人々の中、後から出てきたジョルジュは「何の騒ぎだ騒騒しい」とでも言いたげな、いつもの仏頂面をしている。でも父ルビック氏から連合軍のノルマンディー上陸を知らされ、新聞を手渡されると、表情が一変する。目を瞠り、貪るようにその記事を読む。
もうひとつ、そして一番印象的な姿は、ラ・マルセイエーズ。歌いだしたエドに、一番最初に唱和するのはジョルジュ。車椅子でも、胸を張って、高らかに。
元々、愛国者なのだと思う。それが戦場で傷つき、不自由な身体となり、国のために戦うことも出来なくなった。もしかしたら、そんな自分と占領下の不自由な祖国の姿を重ねて、その愛国の念はより先鋭的な、狂気をはらんだものに変質していたかもしれないけれど。それでも。
初演では真っ先に唱和するのはジョルジュではなかったらしいと聞いたので、ここは本当に、今回の紅ジョルジュを現す場面なのだと思う。
そして、ここでは息子とともに歌うルビック医師の姿も胸を打つ。二人並んで、同じように青筋立てて顔を真っ赤にして(いや実際は赤くなってはいないと思うけれどそのくらいの勢いで)歌う姿を見ていると、親子だなあと思って、何だか泣けてきた。
こんなことを言うと怒られるかもしれないけれど。
ポーラを愛していて、国を愛していて、でも運命や世の中への恨みつらみや自己憐憫やプライドにがんじがらめになって、それをもう表現することができなくなっていたジョルジュにとって、「ポーラの仇をとってドイツ人に一矢報いて死ぬ」という最期は、少なくとも最悪ではなかったのではないかと思う。
エドの言うように「パリが解放されたら元のようになりますよ」とは、そんな解決の仕方があるとは、とても思えなかったので。
(更に余談ですが、ジョルジュが拳銃を手にしたのは、2幕冒頭のあたりからかなあと思ってます。リヒターに対する攻撃的で強気な態度の根拠には、どこからか手に入れたか引っ張り出してきた拳銃を持っていると言う心強さのようなものがひと役かっているんじゃないかと)
いや、同じような不運に見舞われても強く明るく生きる人もいるから、ジョルジュ自身にも問題があったのだと言ってしまえばそれまでだけど。
それでも、あの死に方をちょっとはましだったんじゃないかと思えてしまうような彼の不幸に、やっぱり辛くなる。
だから、あの能天気なフィナーレがあって本当に良かったと思ってます。いやもうほんと、心の底から。
ちなみに、TCAでリラ壁アルバムをダウンロードするとジョルジュのソロの次がこのお気楽フィナーレベニー+あずるりで顎が落ちます。お試しあれ(笑)
人々は心の扉を開いて、胸いっぱい幸せを味わう……
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